主語なし。読書から学ぶという人を基本的に信用していない。読書をして得られるのは意識的に考えられていなかったが有していた価値観、思考の自覚化とそれの綺麗なレトリック位だと思っている。だから読書から生き方価値観と言った類のものを学んだというのは、ああそれ位何も考えていないということの表れなんだなくらいに判断している。小さい頃から読書が嫌いだった。というよりまず、文字を読むことに困難があったので一冊を集中して読めた覚えがない。それはともかく、孤独になりたいという願望が強かったので本を通して人(作者)と関わる煩わしさも感じていた。ただでさえ自分の中には二つの人格があるのでその対話、無意味な統合願望だけで手一杯だった。だから、1人で散歩しながら二人の時間を過ごすのが日課だった。まあ、家に帰る恐怖もあったけれど…社会化願望が強くなっていくと同時に人格の分離も進んだので、ようやく読書を少しは有意義に捉えられるようになった。倫理にも似た類推が当てはまると思う。倫理的であることを愛してやまないのは自分の非倫理的な部分を死守したいからだし、それは他者にとっても大体そうだろうという邪推もある。だから、本質的に倫理的な人間だという評価をする人はロジックを履き違えているなと思っている。直情的な人格、暴力的な人格を守るために、倫理的になりたい。お願いだから邪魔しないで、良かれと思ったとしても。倫理的に対応して。

最近あまりにすることがなく今日もスマホもルーティンの通りに触りきってしまったので何の思慮もなしに思いつきでブログを始めてみた。こういうのは大体登録の面倒くささ(五分で終わるといえそれでも面倒)からいつかいつかと言いつつやらないのが関の山だったが、それでも初めているということはこの暇がいかなるものか伝わるに余りあると思う。まあまずは登録の際にユーザー名の作成が必要になりよく使うような英数字を羅列してみるのだが使用済みなどで上手くいかず(過去に自分で登録している可能性有)、今スマホから流れている曲の一節を適当にピンイン入力したら登録できた。ちなみに、台湾の曲「童話」の一節です。ni ai de na ge tian shi(你爱的那个天使)は「君の愛するあの童話の天使のように」という意味であるが、まあこの曲の歌詞の臭さとPVのありがちな展開はいかにも中華圏と言った感じがする。
さて主旨もなく書き連ねる文才もないので何か無理矢理にでもひねり出してみたい。ここ数日はインスタやフェイスブックなど何を見ても大学の卒業式の話題ばかりが表示されていた。本来の同学は順当ならば今年で卒業、四月から社会人であるはずなので至極当然ではあるが、これを見ると改めて「ああ自分は逸脱したのだなあ」と思うと同時に「有意義な時間を得た」とも感じる。一応説明しておくと社会人になるのは来年でもないから、+2年までを一般的とする日本社会においては自分は逸脱者という見方のうちにはまるのだと思う。よく一体大学で(特に一年次)何をしてきたか、と聞かれるが、抽象化すると冗談抜きで「空が青かったから」以上の答えが見つからない。その是非は自分が判断することでもないと思う。ただ、世界は経験したものからしか考えられないということを実感した1年少しだった。
とりわけ庶民以下の家庭、田舎の非進学校からこの大学に来た者にとってはこれを考える機会はまま多いと思う。だからこそ、コンプレックスの裏返しとしてのバンカラがこのご時世ですら流行る。まあ、そういった中で他者性なき倫理を身に付けた有象無象が見事に社会的(経済的)エリートに昇華して行った挙句の果てをよく見てきたので、自分を省みる機会は常に持っておきたい。書きたいことを忘れたのでこの辺で。